LOST & FOUND PROJECT トーク+スライドショーへ
先日、田町のP.G.Iで開かれたLost&Foundのトークイベントへ出かけました。プロジェクトの実行委員会委員長である写真家の高橋宗正さんとお会いするのは、丁度一年ぶり。山元町の写真洗浄の現場以来でした。かなり大変な仕事をしているけど、元気そうで安心しました。
東日本大震災で被災してしまった写真が、今年の1月、西麻布の赤々舎での展示を皮切りに、3月のロサンゼルス、4月のニューヨーク、6月のメルボルンの展示を経て、東京に戻って来ました。9月はヨーロッパへも旅に出るそうです。なぜいきなりのアメリカだったのか? 質問の答えは、一度日本から離れて写真の価値を問いたいというようなものでした。被災した写真を展示するとなると、汚染の心配をする声も出ていたでしょう。安全性を形で表す意味もあったのかもしれません。
トークの中でこの写真展示はアートか否か、という話しが出ました。
「自然」の対極にある人工の「美術」、その「美術」の役割、それは人に思考を促すもの。という前提で、アートであると言える。という考え方の提示をディレクターの方がした時、この西洋的な美術の位置づけには正直、違和感がありました。
私たち日本人は、自然と美術を切り離しては来なかった。むしろ自然の中から言葉や美術が生まれて来たと、当然のように思って来た。言葉にすると、これではとんでもなく説明も勉強も足りませんが、専門的な見地からみてこれはアートであると言うことの淋しさを感じて、私は山元町の写真洗浄の現場の光景を思い出していました。この1枚1枚、人の手で洗われた写真にとっては、ここに写っていた人たち物たちにとっては、何の関係もないのだから。この写真展示は理論を超えたところで見つめられるべきもの。アートかどうかの価値を取り払って向き合い、そのものの意味を考えるものではないか、私はそう思います。
LOST & FOUND PROJECTのサイト内に赤々舍での展示の様子が出ていますが、どこの展示も同じように壁一面に写真が貼ってあります(1枚ずつビニール袋に入れてある)。私は赤々舍での展示を見た時に、とても単純にうまい展示方法だなぁと思いました。アメリカ人にとっては抽象的すぎる?というような理由で、ニューヨークのアパチュア・ファウンデーションのギャラリーでは、一部額装をして展示をしたそうです。(Aperture Foundationは、NYの写真出版においては欠かせない存在)家族写真としての展示という意味合いだと思います。
日本での展示と同じく、海外の展示場所もギャラリーやスタジオですから、展示される写真に合っていて一番良い環境です。もしかすると、場所と展示方法が被災した写真をアートと言わせているのかもしれない。被災を受けた、たった一枚の写真が、山元町から離れた場所に行き、私たちにいろいろな事を考えさせてくれました。
2012年7月2日(月)−8月31日(金)
※ 8/12 – 19 夏期休廊